医者への夢をあきらめて 目指したのはコメディ女優。 小さい頃、最初に抱いた夢はお医者さんになることでした。物心ついた時、私は長い入院生活を送っていたんです。親を知るより先に、医者の先生や看護士さんを見て育った。小学生のころは、お医者さんになるために必死で勉強してましたね。でも、小学4年生になった頃、お医者さんになるにはすごくお金が掛かるって気付いたんです。うちには私立の学校に行くような余裕はないし、国立大学の医学部へ行くにも、塾やらなにやらお金は掛かる。これはダメだ、と思った瞬間に、まったく勉強をやる気がなくなって。それから高校を卒業するまで、授業中はずっと寝てました(笑)。 小学校高学年の頃って、ほんとにいろんなこと考えてたな。ちょうどその頃『日本沈没』をテレビでやってたんです。それを観ていて、私は「今の日本が向かっている方向は間違っている」と示唆するお話しだと感じたんです。でも、一緒に観ていた叔父は「いや、これは日本が沈没しちゃう話なんだ」という。それはそうなんですけどね。でも、私は「違う、それだけじゃない」と主張してケンカになっちゃった。大人とは、よくケンカしていましたね。 友達との間でも言いたいことを言うタイプだったから、女の子の友達がいなくなっていくんです。今まで仲良かった女友達の様子がおかしくなって、別の友達に「どうしたんだろう?」って聞くと、「あなた、ひどいこと言ったみたいよ」って。私自身はギャグを言ってるつもりで、その時はウケるんですけど、実は傷ついてたって。気が付いたら周囲には男友達しかいなくなってて、中学生の頃には「男好き」とか言われてましたね(笑)。 実際、中学生の頃は周囲には男友達しかいなかった。私自身、体操部に入ってたんですけど、女子の先輩に頼まれて、サッカー部のマネージャーをやってたりして。当時のサッカー部は手の付けられないやんちゃな男子の吹きだまりみたいになってました。最初は、体操部との両立をどうしようなんて悩んだこともあったんですけど、最終的には体操部はおろそかになっちゃって、サッカー部のマネージャーのほうが面白くなっていましたね。最初は自分もタレントだったのに、成り行きでマネージャーが本業になっちゃった今と状況的に似てるのかも知れないですね(笑)。 高校を卒業する頃には、コメディ女優になりたかったんです。でも、そのためにどうすればいいのかわからなくて。街角のスカウトとかでいただいていた名刺を頼りに、自分なりにモデル活動を始めました。仕事先で知り合った方からまた次の仕事のお話しをいただいたりしながら。それが芸能界に入るきっかけでした。 ミスコンテストにも出場してて、審査の中で特技をやってくださいって言われるんですね。子供の頃から変な顔真似は大好きだったんです。ガイコツとか、忍者ハットリ君の真似とか。ただ、それだけじゃ一発芸でしかないので、楠田江里子さんの声真似から、顔真似して、ガイコツになる、みたいに無理矢理広げた「特技」にしていきました。バラエティ番組の「ミスコンさんいらっしゃい」みたいなコーナーで披露して。すると、それをネタだと思った太田プロさんにスカウトしていただいて。 それが23歳の時。同期には爆笑問題や松村邦洋さん、彦麻呂さんがいた幕末塾、春一番さんとかがいましたね。結局、私自身は今の会社を立ち上げる93年まで太田プロに所属していました。実は私、そんなにモノマネは得意じゃなかったんです。ただ、スタートが「楠田江里子」だったので、モノマネは一生懸命練習しましたね。3年ほどモノマネで頑張ろうとして、結構ボロボロになっちゃって。最後は事務所と相談して、番組でモノマネはもうできないと話して、映画とかドラマにポツポツと出させていただいてました。でも、自分が理想としていた「コメディ女優」像には、なかなか近づけなかったですね。 ●次のページは、「『爆笑問題』太田と結婚。気付いたら自分が社長に」