「人事異動だ。ボーカルやれ」で、
クールスRCのボーカルに。
高校は堀越学園に行きました。勘違いしてたんだよねぇ。堀越のことを芸能関係にルートのある専門学校のようなものだと思いこんでた。作曲のテクニックとか教えてもらえるんじゃないかと。でも、行ってみたら普通の高校だったんだよね。結局、1年ちょっとで辞めちゃいました。
でも、そこで会った友だちと一緒にバンドをつくって、オリジナル曲をやるようになった。俺はボーカル兼キーボード、というかエレクトーン(笑)。エレクトーン、すごく重いんだけど、ステージに持ちこんでたの。そのエレクトーンは、中古で買ったものなんだけど、作曲するのにこれほど便利な楽器はなかったですねぇ。リズムパターンとか内蔵されてるし、ベースの足鍵盤も付いてるしさ。だんだん、バンドよりも作曲に夢中になっちゃって、もう、数限りなく楽曲を作りました。いいのができるとテープに吹き込んで。テープレコーダーを使って、外部マイクで重ね録りしたデモテープだから出来あがりはぐしゃぐしゃ。それをレコード会社や広告代理店に持ち込みはじめたんです。
メジャーの窮屈さを感じるようになったのは、その頃からかな。「こういう曲も聴きなよ」とか「持ちこみよりオーディションに出なさい」とか…、いろいろ大人が指導してくれるわけですよ。もちろん親切から言ってくれるんだけど、俺は音にアドバイスされるのが嫌だったんだよね。俺の音楽はすごい細かいニュアンスの集大成だったんですよ。だから、一音たりとも、ほんのちょっとでも、いじられるのは嫌だった。
なので、学校を辞めたあとはガソリンスタンドに就職しました。もちろん音楽はやりたかったんだけど、金を稼いで、自分の音楽活動を自分で支援しようと思ったの。プロダクションなんかに所属すると、ああしろ、こうしろと意見が出る。自分でお金出さなきゃだめだと思ってね。自分で自分のパトロンになるつもりで働きはじめたんですよ。
ガソリンスタンドで働きながら、週末になると道端で古着とか広げて売ったりもしてたんです。今で言うフリマみたいな感覚でね。そのうち、ロサンゼルスに在住することになった親友と組んで、向こうの古着を仕入れて本格的に商売することにしたんです。『ドラゴン貿易公司』という名刺を作ってね。ある時、行商で原宿に行って、間違えて当時人気のバンド『クールス・ロカビリークラブ(以下、クールスRC)』の『チョッパー』という店へ古着の売り込みに入っちゃったんですよ。いきなりリーダーが出てきたからびっくりしちゃいましたね。その時、動物的な直感で「ここは俺と長い付き合いになりそうだ」と思った。そこからちょくちょく、『チョッパー』へ出入りするようになりました。
その後、古着屋の拠点を横浜から神宮前に移して、都立高校の定時制にも入りなおしたんですが、ある日突然「明日からクールスRCのツアーなんだけど、スタッフに1人欠員が出た。おまえついてこい」と言われてね。最初は断ったんですよ、本腰据えて古着屋をやろうと思ったのに、学校も入ったのにと。でも、「これはチャンスだぞ!」って言われてね。そのまま次の日から、着の身着のままツアーについていっちゃいました。学校は入ったばかりで休学届出して、そのまま辞めることになっちゃいました。でも、確かにこれはいいチャンスだったんですよ。音楽ビジネスを裏から見ることができたから。下っ端からスタートして、その後マネージャーに昇格したり、ファンクラブの責任者になったり、そういう人事異動も経験して。
ある時、リーダーに呼ばれて、なにかと思ったら「人事異動だ」と。「おまえ、ボーカルやれ」と。笑っちゃいましたね。ただ、ちょうどその時、自分の音楽がようやく認められて、レコード会社からソロデビューの話もきていたの。大体、いい話が来るときは2ついっぺんに来るんだ、来ないときには何も来ないのに。究極の選択だったけど、自分は歌手になりたいわけじゃない。あくまで楽曲を使ってもらいたい。だから、クールスRCを選びました。初めて自分が作った曲が盤になったのは『シンデレラ・リバティ』。17の時に作った曲なんですよ。嬉しかったですねえ。
本当の芸名は「横山剣輝」だったんです。でも『シンデレラ・リバティ』の作曲者クレジット見たら「横山剣」になってたの。誤植(笑)! しょうがない、横山剣でいいやと。あと、初ステージでメンバーから「クレイジーケン!」と紹介されたので、じゃあクレイジーケンでいいかと。そこらへんは、されるがままでしたねえ。
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