■ゲスト:斉藤光浩 [Mitsuhiro Saito] 昭和33年2月3日生まれ。神奈川県大和市出身。1974年、ロックバンド・DO.T.DOLLのリードギター&ボーカルとしてレコードデビュー。 1975年、DO.T.DOLL解散。1976年 、BOWWOWのギター&ボーカルとしてレコードデビュー 。1977〜78年、エアロスミス、キッスの日本公演にオープニング・ゲストとして参加。約7年間でアルバム14枚を発表。 1982年香港のACホール・コンサート。スイスのモントルー・フェスティバル、イギリスのレディング・フェスティバルに出演。 1983年ハノイロックスと共にイギリス・ツアーを行う。同年、BOWWOWを脱退し、ロックバンド・ARBにリードギターとして加入。 1986年、ARB脱退。その後、レコーディングプロデューサー、ソロデビューなどを経て、1998年、15年ぶりにBOWWOWを再結成。現在に至る。 山本:うん。『銀座NOW』でアイドルだったね、光浩は。 斉藤:当時のプロデューサーに「ある音楽学校にすごいギタリストがいるらしいから一緒に見に行こう」って言われて。 山本:恵比寿にあった学校に来たね。 斉藤:リハーサルルームで。ベースはプリズムの渡辺健さんだったかな。今考えるとすごいメンバーと一緒に演ってるところを見学して。その時の第一印象は「とても一緒にはできないだろうな」っていう雰囲気だった。帰りの東横線で、新美君と二人で「きっと断られるよね」なんて話しながら帰ったのをすごく覚えてる。 山本:それから一応セッションしてみようよってことになって。いきなり僕が先生モードになっちゃたんだ。ホワイトボードにコードをバーッと書いて「これでやってみようよ」って。実はその演奏を聴いてた学校の先生に「山本君ね、悪いこと言わないからこのメンバーでやるのやめた方がいいよ」って言われたんだ(笑)。 斉藤:確かにね、演奏は粗かった。17歳だったんだもの、しょうがないでしょ。 山本:みんな子供だったね。でも、二人共スター性みたいなものを感じたし、僕は「もし彼らと一緒にやれたら、すごい格好いいバンドができるんじゃないかな」って思ってた。僕は18か19歳だったな。 斉藤:その後、デビューに向けて埼玉県の人里離れた場所で合宿したんだ。目の前に沼があって、プロデューサーの知り合いが釣りをするために建てたプレハブで。当時は不思議とも思わなかったけど、今考えると、よく何カ月も我慢できたなぁ(笑)。 山本:そうそう、豚牧場の真ん中。ブヒ〜!って豚の声しか聞こえなくて。そのかわり、フルボリュームで演ってても誰からも文句言われなかった。豚が寝付けないくらいでね(笑)。テレビもねえ、ラジオもねえって吉幾三の世界。おまけに水道もなかったから、毎朝両手にポリタンク持って上の豚牧場まで水を汲みに行ったんだ。 斉藤:でも、楽しかったよね。好きな音楽だけをやってられたから。 山本:色んな練習したね。個人練習から始まって、曲づくりから何から朝から晩まで。練習が終わると、3段積みギターアンプにレコードプレイヤー繋いでプログレなんかを大音量で聴いて。真っ暗だから、オトコだけで肝試しやったり(笑)。 斉藤:上の大家さんのところからバイク借りて乗り回してて、気がついたら後ろの新実クンが道路に落ちてたこともあった。 山本:唯一僕らを慰めてくれたのが、壁に貼ってあったプレイボーイの切り抜きのアグネス・ラム(笑)。 斉藤:フィジカルなトレーニングもやったね。30回から始めてさ、一日に一回ずつ腹筋と腕立てを増やしていこうとか。あの頃、日本のバンドでは当時まだ珍しかったプロモーションビデオを作ったじゃない。ロンドンブーツで山道マラソンしてる映像が残ってた。プレハブもしっかり映ってる。 山本:ははは。ヒールの高いブーツ履いて、ステージでこけるのは格好悪いから、山道をロンドンブーツで走って絶対こけない強い足首をつくろうってね。あれを今の若い子たちにやれって言っても絶対できないよね(笑)。バカだって言われる。でも、真面目にやってたなぁ。 (左)最初の恭司モデルであるYAMAHA-SF。このギターから数多くの名プレイが生み出された。 (右上)30年前のエフェクター (右下)30年前の初コンサートチケット