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モト冬樹とグレート・ムタの共通点とは。
新日に入団してしばらくはキツかったよ。練習量がハンパじゃないし、しかも当時は「スクワット2000回」とかとんでもないメニューだろ? そりゃ、俺の膝も磨り減るわな。練習場はトタン屋根だし、夏場は地獄だよ。入団して1週間くらいで、先輩の山本小鉄さんに「辞めます」って言っちまった。そしたらさ、引き留めにあったんだよ。これってすげえ珍しいことで、普通は「あ、そう」の一言でサヨウナラ。引き留めるからにはどこか見所があるんだろうな、と思って踏ん張ることにした。
俺の大嫌いなタテ社会も、見事に徹底されていたね。俺と同じ日に入団した橋本真也は特に後輩イジメが激しくて、エアガンでスズメ撃ち殺して、焼いたやつを食わせたりしてたよ。あ、スズメだけじゃなくて後輩も撃ってたな。
俺にとってラッキーだったのは、当時が新日の激動期だったこと。俺の入団と前後して、先輩たちが新団体を立ち上げては次々に抜けていった。寂しがるヤツも多かったけど、俺は厳しい先輩がいなくなって気が軽くなったもんな。
入団して2年目に、アメリカ武者修行の話が来たんだ。海外なんか行ったことなかったけど、日本での窮屈な修行生活にも飽きた頃だったからね。乗ったよ。新日で過ごした2年弱がプロレスの基礎体力を養う期間だとしたら、海外修行はビジネスとしてのプロレスを学ぶ期間だったと言えるんじゃないかな。ビジネスったって、金勘定じゃないぞ。お客さんがプロレスに何を求めているのか、レスラーはどう応えていくべきなのか、そういう視点を身につけたってことだな。
アメリカのレスラーはベビーフェイス(善玉)とヒール(悪玉)に分かれる。俺はベビーフェイスでデビューしたんだけど、途中でヒールに転向したんだ。鮮やかだったよ。味方を助けにリングに上がるふりをして、いきなり味方を痛めつけたんだ。会場は一気に盛り上がったね。「あの野郎、裏切りやがって!」ってことでいろんなもん投げられたけど、鳥肌が立つほどの快感を覚えた。あれが、プロレスの楽しさってもんが何なのか、つかんだ瞬間だったと思う。
プロレスと格闘技をごっちゃにしてる人もいるみたいだけど、まったくの別物なんだよ。格闘技は純粋な競技。K-1やPRIDEはいわばオリンピックだ。プロレスはもっと懐が広くて、リングに限らず会場全体をフルに使って演出するもんなんだよ。きちんとストーリーを作り、キャラクターを作り、試合をひとつの作品にするんだ。それでこそ、お客さんの盛り上がりが生まれる。
俳優として映画に出たことが何度かあるんだけど、やっぱり監督の手中にある駒にすぎないって感じがするんだ。プロレスなら、主演の俺がシナリオも作るし、演出も照明も全部自分のプランでやれる。この面白さを超えるもんはねえな。
そう教えてくれたアメリカは、俺にとってプロレスの故郷かもしれない。最初に滞在したタンパって町はド田舎で、俺の育った土地に何となく似てたし(笑)。そのせいばかりでもないだろうけど、海外にいた期間は長かったよ。プエルトリコ、テキサス、いろんなところに行ったね。その頃、日本では関節技と蹴りが主体のストイックなプロレスが流行っててさ。俺に言わせると、そんなの柔道と変わりない。それも、俺が海外に引き付けられた理由なんだろうな。
毒霧とペイントのキャラクター、グレート・ムタが生まれたのもテキサスで、だった。「ムタ」って名前の由来は単純でさ。あっちでは、「ムトウ」が発音しにくいらしいんだな。アナウンサーによって呼び方が違っちゃうんで、「ムタ」に統一したんだ。こないだモト冬樹さんと話したんだけど、あの人も本名は武藤なんだってね。俺と同じネーミング手法ってわけだ。俺も一歩間違えたら、「グレート・モト」になってたかもしれないな。
日本に戻り、居座ることを決めたのは1990年。アメリカのあるプロレス団体の代表が来日してるって新日の社長から聞いて、その人とコンタクトを取るために帰ってきたのがきっかけなんだ。実を言うと、その団体に入りたかったのさ。でも、結局会えずじまいでね。もしかしたら新日の社長にうまいこと呼び戻されただけかもな。
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